名湯、湯河原。その歴史におもいを馳せて

日本最古の和歌集[万葉集]に唯一温泉のことが詠われた名湯、それが湯河原温泉です。
様々な歴史舞台となる湯河原の魅力をご堪能ください。

日本最古の記録

湯河原では、約2千年前から水田が行われていたことが発掘調査の結果判明しています。今から約1千3百年前(674年)、大化の改新後まもなく加賀の国(金沢)から名族の血統である二見加賀之助が、新しい政治の圧迫を逃れる為に湯河原に移住したという説が残されています。
また、湯河原で最も古く由緒ある神社【五所神社(※1300年前に創設)】は、この二見氏が湯河原に金沢の白山信仰(山岳修行)伝える為に創設したともいわれています。

日本最古の和歌集、万葉集(760年前後)に、唯一温泉の様子が記されているのがここ湯河原温泉です。

【あしがりの土肥の河内に出づる湯の、世にもたよらに子ろが言はなくに】
(巻十四の東歌/相模の国の歌十二首の中の八首目)
[意味]:「湯河原の温泉が、夜となく、こんこんと河原から湧いているが、その湯河原温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺の事を思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」

この歌が万葉集初期の歌として多分に民謡性を帯びていると思われているところから想像すれば、すでに湯河原の渓谷には温泉が湧いていたことは勿論、その頃の人々がその温泉が湧き出る様子を女性の情熱にたとえて、酒の酔いに浮かれながら歌った素朴な生活ぶりが想像できてゆったりとした気持ちになります。

※この歌の発祥地といわれる万葉公園入り口には、万葉集に詠われた歌碑がございます。文学の古径と合わせて当時の歴史に思いに浸ってみてはいかがでしょうか。

源頼朝と湯河原

1180年、小田原市南部の石橋山で行われた源頼朝挙兵後最初の合戦で、平家方3000騎に対し源氏軍300騎。多勢に無勢、源氏軍は敗れました。追い詰められた源頼朝は湯河原を領地していた武将、土肥実平の案内で湯河原の山中に逃れ、後に実平の手配した小船で房総国(千葉)に逃げ延び、再起を計りました。それ以後源氏軍は勝利を続け、結果として頼朝は関東を制することになるのです。鎌倉幕府の成立も、この地での実平の助けがなければ不可能だったと伝えられています。

源平盛衰記には、源氏・平家双方の中で最も有名な武将として実平のことが多く語られています。 土肥実平は鎌倉幕府成立後その手腕を高く評価され、瀬戸内海の治安確保のため、安芸国(広島県)に派遣され、数々の事績を残しました。湯河原のやっさ祭りは土肥実平が領民の人身安定のために始めた「実平踊り」が起源であるといわれ、湯河原と広島県(三原市)の両市町は「やっさ踊り」を通じて親善都市提携を結んでいます。


※湯河原の五所神社は源頼朝が源平合戦前に、初めて戦勝祈願した場所として有名です。
※現在、年に一度当時源の頼朝の旗挙げを模して、戦国時代の武者行列を行っております。町内を練り歩く武者はまさに圧巻。(4月第1日曜日)
※土肥次郎実平(土肥実平)は、当時湯河原を領地していた武将。

土肥次郎実平

温泉地としての発展

湯河原温泉は、風光明媚な立地と温暖な気候、海山の幸にめぐまれた相(豆)州の名湯として湯治客を集め、箱根、熱海の大温泉地に挟まれながらも独自の地位を築いてきました。 江戸時代の温泉番付では、だいたい箱根筆頭の芦乃湯より上位、小結あたりにきており、いかに評価が高かったかがわかります。

※当時江戸幕府には湯河原の温泉(薬湯)を献上していました。湯河原の湯は古来より”薬師の湯”とも呼ばれ、万病に効くと讃えられましたが、なかでも傷に特効のあるお湯として知られており、石膏泉系のやわらかな泉質には定評があったようです。また、”こごめ(み)の湯”ともいわれ、子宝の湯としても名を馳せていたようです。


湯河原が目覚しい発達を見せるのは、明治29年に小田原から熱海間に人車鉄道が開通してからのこと。交通の便がよくなってからは、東京方面はじめ多くの人が療養と観光に訪れるようになりました。(人車鉄道とは、トロッコのような小型の箱車を人夫が2~3人でレールの上を押すという鉄道です)また、明治39年には人車鉄道のレールを使い小型のSLを使った軽便鉄道が走るようになり、小田原から熱海まで海岸沿いを約25kmの距離を1日十数回往復していました。


※当時使われていた人車鉄道の車輌の一部(実物大の模型)が、湯河原の甘味処「味楽庵」に展示されています。

湯河原温泉

芸術家・文豪に愛された町

湯河原に足跡を残した画家の四頭は竹内栖鳳だといわれています。
再発した肺炎によって、湿地の多い京都から気候温暖な地への転地療養を勧められたのがきっかけで湯河原に転居しました。竹内栖鳳とならび巨匠と称された横山大観も、しばしば湯河原を訪れます。他、日本画家・西洋画家ともにこの地を愛した人物は、安井曾太郎、伊藤深水…など多数います。
夏目漱石は遺作「明暗」の重要な舞台としてここを選び、芥川龍之介もまたこの地に思いを傾け、疲れた心を山あいの湯に慰めようと訪れる与謝野晶子、島崎藤村、宇野浩二らの姿もありました。国木田独歩はしばしば訪れ、その風情を愛し、いくつかの作品を残しました。
また、山本有三、谷崎潤一郎は後にこの地に移り住んだ文豪として有名です。戦後も小林秀雄、丹羽文雄、大岡昇平ら多くの作家が逗留し創作の筆をとりました。


※湯河原が舞台となった小説に芥川龍之介の「トロッコ」や国木田独歩の「湯河原ゆき」を読むと、当時の様子を知ることができます。 また、町立湯河原美術館では竹内栖鳳や安井曾太郎、伊藤深水等の絵画が展示されております。

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